ひとりなら

なーんかだんだん頭でっかちになってっているなあと思う日々。もともと大きい頭が、窮屈で重くなってきている気がする。ありがたいことに変わらず手を動かせる状況なのに、急に心許なくなったりしてしまうときがある。

毎日立つ研ぎ場の前のガラスに、ひとつの言葉を貼りつけている。世の中の状況で、不自由を感じざるを得ないなか、それぞれがひとりを意識する時なのかなと感じている。それでもひとりはこんなにも自由なのかもしれない。

独立した5年前の春、広い工房の中で、ひとりになったことを強く強く感じていた。それは期待や自信より、不安が大きくて、自ら踏み出したことなのに、ほんと大丈夫か、これで良いのかと自分に問うようなことばかりだった。それでも決めるのは自分しかいないことを実感していた。

今はひとりになった事を、よかったんだなあと肯定できるけれど、たいして気持ちは変わらないままだ。

日々迷ったり、行ったり来たりの中のその時に、引っ掛かったことや、通り過ぎたこと、決めたこと、間違ったこともあって、その後に、気づいたことや、気づき直す実感を重ねながら、自分のものさしが少しずつはできてきているのかもしれないと思う。自分で考えたことや、決めたことは、いろんな意味でやがて自分に返ってくるのだと思う。

だからこそ、ここちよい方へ、自然な方へと進んでいきたいとも思えるようになった。

ガラスに貼ったこの言葉のように、広さを感じられないとき、自由にいられないのは、たいていは自分が勝手につかまってしまったり、こだわったりしてしまうからだろう。

時折、本当に嘘みたいに広がりを感じられるような時は確かにあって、それはほんとご褒美だなと思う。またそんな瞬間に出会いたい。ひとりとして、ひとり、ひとりと出会っていきたい。そのためにも余計なことは傍に置いて。そういう時間を持てるよう手を動かし続けようと思う。